【直木賞受賞『ともぐい』河﨑秋子×『クマ撃ちの女』安島薮太 対談!!】

ヒグマなど害獣駆除の賛否と価値観の線引を考える

“動物と人間の関係”を河﨑秋子と安島薮太が語る

安島薮太(漫画家)/河﨑秋子(作家)/構成・加山竜司/撮影・曽根香住

 

河﨑秋子さん(左)と安島薮太さん(右)

河﨑秋子×安島薮太・対談「動物、狩猟、そして炙り出される人間性」

 北海道で乳牛66頭を襲い、世間を騒がせた「OSO18」のほか、日本全国各地で熊による人身被害が発生した2023年――。害獣駆除に賛否の声が上がり、動物と人間の共生が注目された。

 そうした背景を踏まえ、猟師を題材にした小説『ともぐい』で第170回直木賞を受賞した河﨑秋子さんと、漫画『クマ撃ちの女』の作者・安島薮太さんが、命に対する様々な価値観を語り合った。

 熊や鹿などによる被害や猟師の存在、そして動物への愛着などが交錯する二人の想いとは?

相次ぐ熊害(ゆうがい)と過熱する熊報道

河﨑 私の実家は北海道の別海町で酪農をやっているのですが、OSO(オソ)18が出没した標茶町の隣町なんです。車で1時間ほどかかるので、離れてはいるのですが、こちらに来たとしてもおかしくはない位置関係でした。ただ、放牧中の牛や馬がヒグマに襲われ、尻を噛まれたり引っ掻かれたりすること自体は、さほど珍しいことではないんですよね。

安島 僕が取材でお世話になっている猟師の方も、OSO18は特別ではなく“通常運転の熊”という言い方をしていました。たまたま被害が大きくなってしまったんだろう、と。OSO18に関しては、メディアが「怪物」を求めたような印象も受けました。熊の目撃例が全国的に増えていますけど、それは実感します?

河﨑 私が子どもの頃よりは確実に増えています。ただ、うちの地域では、お互いに干渉しない関係は維持できているんですよ。それだけに、2021年に札幌市の東区でゴミを出している最中に人が襲われたというニュースを見たときは、すごくショックを受けました(注:東区で人が熊に襲われたのは1878年以来143年ぶり)。集落のなかで暮らしている人間が安心できなくなるというのは、ものすごく印象的な出来事でしたね。

安島 実際に熊を目撃されたことはありますか? 僕は動物園でしか見たことがないんです。

河﨑 大体200メートルほどの距離で目撃したことがあります。大きな川沿いの、橋を渡ったあたりで、道路を横断していました。夏前でやせ細っていたし遠目だったので、最初は犬かと思ったんですが、どうもサイズが違う。さすがに「やばいな」と思いました。

安島 200メートルは怖い。僕は取材中にデントコーン畑(とうもろこしの一種)で熊の糞を見つけただけで、もう怖くて仕方がなかった。害獣の駆除が報道されると「可哀想だ」とか「ほかにやり方はなかったのか」と言われますけど、それは安全圏で見ている人の意見じゃないかな、と思います。

河﨑 その感情は人間特有の優しさだと思うので、なきゃいけないことなんですけれども、それを現場で苦労している人にぶつけるのは違いますよね。ただ、私は『ともぐい』を物語として書いたのであって、熊への注意喚起のために書いたわけではないんですよ。

安島 僕の場合はちょっと違っていて、というのも長期連載のマンガの場合、連載中に何か事件や出来事があれば、その時々で自分の考えを作品に込められるんですよね。だから「熊を舐めている奴を怖がらせたい」という意図も、じつは少しだけありました(笑)。とはいえ、熊は怖いだけじゃないとも言いたいので、それはこれから描いていくところですね。注意喚起という点では、11巻の巻末のおまけマンガは、まさにそのためだけに描いたんです。

河﨑 あれは本当に実用的で、興味深く拝読しました。

 

動物をどう殺すか、という問題
河﨑秋子さん

河﨑 安島先生は、どういった発想から『クマ撃ちの女』を描かれたのですか?

安島 いちばんベースにある考え方は、自然と人間の関係性を描きたいということでした。もともとは動物商、つまり動物を売る人間を主人公にしたマンガを描こうとしていたところから変遷があって、現在の形にたどり着きました。だからテーマ自体は最初から変わっていなくて、「人間は動物をどう扱うのか」みたいなものですね。

河﨑 私は明治から大正初期にかけての北海道の文献を読むのが好きで、そういったものを読んでいると、どうしても「熊の被害はセット」みたいなところがあるんです。いまよりも性能のよくない銃を使い、電気柵もないところで家畜を飼い、どうやって生き抜いてきたのか。人間がどのように動物に相対してきたのかに興味を持っていまして、それで14年前に熊に関する小説を書きはじめたんです。「人間は動物をどう扱うのか」というテーマは、どこから着想を得たのですか?

安島 いま学校教育では、動物の命の大事さや平等を道徳として教えますよね。しかし、親戚の家が肉屋を営んでいたのですが、そこでは害になるネズミとかをバンバン殺していたわけです。割と雑に。そういったものを幼少時から目の当たりにして、「あちらとこちらで言っていることには齟齬があるな」と。その矛盾について考え続けていたんです。幼少期の体験というのは大きいかもしれません。

河﨑 私の場合、子牛が生まれたときに、両親から「名前をつけるんじゃない」と厳しく言われました。真っ白な子が生まれると、やっぱり「シロ」と名付けたくなるじゃないですか(笑)。でも、雄であればすぐ肉になるし、雌として10年近く乳を出してもらったとしても、最後は必ず肉になるんです。

安島 ああ、やっぱり名前をつけると愛着が湧いちゃいますよね。

河﨑 結局は、人の食べるためのものをアウトソーシングし、生き物の命を奪うために育てているというのが本質だと思うんですよね。ただ、人間が動物にどういう感情を抱くか、そこに人間性が炙り出されると思います。

安島 本当にそうだと思いますね。

河﨑 『クマ撃ちの女』は、猟師さんの癖の強さがそれぞれ描き分けられている点がすごいですね。同じ猟師であっても、キャラクターによって動物の扱い方がそれぞれ違う。どう扱い、どう殺すか。つまり「動物の殺し方」ですよね。目を逸らさずにそこを描かれているのが素晴らしいです。

安島 ありがとうございます。『ともぐい』を読んだときには、河﨑先生も同じことをやろうとしているように感じられて、それで嬉しかったんです。


『クマ撃ちの女』(第6巻収録第43話)より

河﨑 現代では、まったく狩猟に触れなくても生きていくことは可能じゃないですか。実際に狩猟免許や銃砲所持許可を取得するには、手続きや審査のハードルがすごく高い。それでも、あえて野生動物を狩猟することに意味があるとしたら、どういったものなのか。『クマ撃ちの女』では、それが物語の芯に通底していて、まさに現代日本で狩猟をする意味がすごく如実に描かれています。しかもそれが主人公の視点だけではなく、いろいろとあり、ときに衝突もしますよね。『クマ撃ちの女』ですごくリアルだなと思ったのが、主人公チアキの狩猟犬が熊に怪我を負わされて、動物病院に担ぎ込む回です(第6巻収録第43話)。

安島 獣医師が「治っても狩猟は無理かもしれません」「安楽死…させますか?」と問いかける回ですね。

河﨑 手術が成功して狩猟犬が一命をとりとめたときに、チアキが「またクマが撃てますぅ!」と言うんですけど、それに対して獣医師が「……連れて行くのは構いませんけどね 本当に気をつけてあげてください」と冷静に注意する。回復した狩猟犬を再び狩猟に連れていくかどうかチアキがひとりで内省的に思い悩むのを描くのは簡単ですけど、第三者がちゃんとその立場にふさわしいことを言って、きちんと釘を刺してくれているんですよね。

安島 いまの社会では、動物をものとして扱ってはいけない風潮があるじゃないですか。でも、使役動物として扱う側面もあるので、その両面を見せたい、という気持ちがあるんです。世間一般では、犬は愛玩動物として扱われますけど、狩猟犬は使役動物ですから、同じ動物なのにその違いを端的に出せますよね。

河﨑 私は1年間ニュージーランドに行って、住み込みで牧羊を教えてもらったことがあるんですけど、牧羊犬というのは、狩猟本能に蓋をして牧羊をさせるんですよ。新しく子犬を引き取ってきたときには、やっぱり子犬だから可愛がりたくなるんですけど、「やめなさい」と言われました。牧羊犬にするために褒めることは大事だけど、必要以上に可愛がると牧羊犬としての働きができなくなってしまう。そうなると「お前が自分で撃ち殺すことになるんだよ」と諭されました。

安島 ペットとして甘やかしすぎて番犬が務まらない、なんて話はよく聞きますよね。

河﨑 使役犬としての犬は、その目的のために適切に使わないと、結局は役に立たないものとして、その個体を殺さなきゃいけなくなるんです。

安島 その一方で、「可愛いだけ」というのも役割なんだな、とも思うんです。最近、実家がペットとして犬を可愛がっているんですけど、そばにいるだけで人間の役に立っている。これだけ人間に懐く動物も珍しいですよね。

河﨑 そうした命に対する異なった価値観が、先ほどあげたシーンの、たった2コマの中に凝縮されているところが素晴らしいんです。

 

表現とコンプライアンスの問題


安島薮太さん

河﨑 『クマ撃ちの女』の連載開始後、たとえば動物愛護団体などからクレームは来ましたか?

安島 いや、いまのところないです。

河﨑 テレビや映画では、主人公がタバコを吸っているシーンがあるだけで規制がかかるような風潮がありますが、『ともぐい』は明治時代が舞台なので、それでコンプライアンス的な観点から平等を求められるようなことが和らぐかな、という意識が、じつは少しありました。明治時代の話であれば、人間の欲望を包まずに書けるな、と。

安島 そういう意味でいうと、僕は結構無茶をしていたのかもしれませんね(笑)。チアキの師匠の光本は、かなり違法なことをやりますから。

河﨑 光本はいいキャラしてますね。

安島 じつは『クマ撃ちの女』の連載が打ち切りになる雰囲気を、自分で勝手に感じ取っていたんですよ。だから、早いうちに描いておこうかな、と思って出したキャラクターです。

河﨑 実際に違法なことやグレーなことをやっている猟師の例は、話にはよく聞きます。

安島 そういったものを暴きたい、という意思はないんです。あくまでも主人公や光本個人の異常行動として描きたかった。こちらがそういう気持ちだから、取材している人も教えてくれるのだと思います。

河﨑 冬の入り始めに雪が落ちてきて、林の中には笹が茂っていて、チアキはすごく慎重に進むにもかかわらず、足を引っ掛ける場面も、すごくリアルだなと思いました。

安島 転ぶシーンは担当編集から「ここ要りますか?」って言われるんです。ワンパターンかなぁと思いつつも、うるせえよ、と押し返して(笑)。山に入ることは、転ぶことと同義なくらいによくあることなんです。でも、そういう情報がたくさんあっても、リアリティがあるように描けるかどうかは別で、そこに気づいていただけたのは嬉しいですね。

河﨑 笹の話ひとつとっても、文章で伝えられるものと、マンガで絵として伝えられるものは、かなり違いがあって、こういう見せ方があるのかと、すごく勉強になりました。たとえば、熊が近づいてきてチアキが緊張する場面や、熊の気配を感じ取るところとか……。私も、林の中に入って山菜採りをしていたとき、なんかやばいな、これは良くないな、と思って引き返すことがありました。

安島 取材でそのような話を聞いて、チアキが引き返すシーンを描いたのですが、僕自身は実感したことはないんです。やはりあるものなのでしょうか?

河﨑 あります。人間にもし動物の部分が強く残っているとしたら、そういう直感には従ったほうがいいのかな、と思います。ただ、たまに本州で山に入ったりサイクリングロードで自転車を流したりすると、北海道とは植生や野生の動物、鳥の種類が違うので、これは私にとっては完全にアウェーで、そうすると全然、勝手が違いますね。

お互いの作品の読み所

安島 『ともぐい』の主人公の熊爪は、すごく即物的な考え方をしているように感じられました。しかもそこが徹底されていて、ちょっとびっくりしたんです。

河﨑 熊爪は熊に近めの人間、という意識で書いてましたね。

安島 お屋敷の若い衆が熊爪を運ぶときに「余りにも臭う」と表現するのがリアルでした。ああいうタイプの主人公って、あまり多くないと思うんですが、モデルはいるんですか?

河﨑 ビジュアル的なイメージとしては、愚かしさも含めて『愛しのアイリーン』(新井英樹)の岩男ですかね。

安島 岩男でしたか、すごい! 新井先生の作品がお好きなんですか?

河﨑 高校生ぐらいの頃に『愛しのアイリーン』を読んで、すごく衝撃を受けたんです。それが軸にありました。

安島 『ともぐい』は、最初は明治時代の狩猟者のルポみたいな始まり方をするじゃないですか。男性視点の。ルポとして読めるくらいな情報量なんですけど、次第に人間の正体を暴こうとしているように感じたんです。その物語展開が斬新でした。熊爪は即物的で軸があり、あまり揺らぎがないように見えて……、性の問題でブレてくる。

河﨑 そうですね。揺らぐほどほかの世界を知らないというか、選択肢を知らないというか。自分にはこの生き方しかないだろう、と思っていたんですが、それが女関係で揺らぐことに。

安島 いやもうね、男の情けない感じも、女の怖い感じも、全部書いてある! これはマンガではできないなぁ、と。僕がやっているのは文学じゃなくて娯楽なんですけど、ちょっと負けた気がしました。

河﨑 いや、そんな(笑)。

安島 何かもう、濃厚なものをぶち当てられた気がしています。完璧な小説ですよ。エンタメ性があるのは大前提として、まったく逃げずに人間のあり方を書こうとしています。帯文に「熊文学」と書かれていますが、『ともぐい』はまさしく文学ですね。

河﨑 『クマ撃ちの女』のラストは、もう決まっているんですか?

安島 だいたいは想定してます。

河﨑 安島先生の狩猟に対する視点とか、猟師さんに対する視点が、非常に公平で誠実でフラットなものですから、描き手を信頼しながら読み進めていけるんですよ。その安心感がすごくあり、物語の行く末、たとえば主人公が最初の願望をどのようにして叶えていくのか。主人公を取り巻く人たちがそれをどうやって見守っていくのか、今後も注目していきます。

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河﨑秋子(カワサキ・アキコ)
1979年北海道別海町生まれ。2012年「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞(創作・評論部門)受賞。2014年『颶風の王』で三浦綾子文学賞、同作で2015年度JRA賞馬事文化賞、2019年『肉弾』で第21回大藪春彦賞、2020年『土に贖う』で第39回新田次郎文学賞を受賞。他書に『鳩護』『絞め殺しの樹』(直木賞候補作)『鯨の岬』『清浄島』などがある。

安島薮太(アジマ・ヤブタ)
1984年生まれ。愛知県出身。大阪芸大卒業後、アシスタントスタッフなどを経て漫画家に。2019年、『クマ撃ちの女』(「くらげバンチ」)にて連載デビュー。入念な取材を積み上げたリアリティと衝撃的な内容で、さまざまなメディアで話題となる。

 

 

 

ファイティングポーズをとる河﨑さんと安島さん

 

新潮社 波
2024年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです